Kuhan Chandru(クーハン・チャンドゥルー)
生命誕生に迫るという大きな目標を見据えて
「日本での研究はスピードが速くて刺激的。その上、ELSIには第一線の研究者が集まっているから、知りたいことがあればすぐに聞きに行ける。この環境はとても貴重です」と話すのは、ELSI若手研究員 のクーハン・チャンドゥルー。「原始地球で、どのようにして生命誕生につながる生体分子ができたのか」に迫ろうと、自らが中心となって新たな実験を準備中だ。
母国はマレーシア。海に囲まれたこの国で、大学生の頃には海洋環境の研究に携わっていた。しかし、海でサンプルを採取して分析するという日々の繰り返しに、当時は面白さを見いだせなかったという。転機となったのは、2010年に来日し研究分野を変更、横浜国立大学の小林憲正教授の下で、アミノ酸や核酸、糖など生き物を形づくっている生体分子がどのようにしてできたのかを探る研究に携わるようにったことだった。そして2014年5月、小林教授の勧めもあってELSIの研究員公募に応募した。
「以前、研究を面白く感じられなかったのは、研究の全体像を理解していなかったからだと思う」と振り返る。そして今"生命の誕生に迫る"という大きな目標を見据えながら、生体分子の研究を進めている。
本当のところはわかっていない、生体分子の生成
チャンドゥルーが興味をもつ生体分子に関する研究は、現状どうなっているのだろうか。生体分子の生成といえば、1953年に行われたユーリー・ミラーの実験が有名である。水素やメタン、アンモニアを含む気体を原始大気に見立て、そこに雷に見立てた電気的な放電を行ったところ、生体分子の1つであるアミノ酸が合成された。この実験は「原始の地球で生体分子が発生する可能性が十分ある」ことを初めて示した点で重要であった。しかし、これが実際に地球で起こったのかどうか、さらに生命誕生につながったのかどうかは、未だに明らかになっていない。そのため、「実際にどんな生体分子の生成が生命誕生につながったのか」を突き止めようと、多くの学者による研究や調査が続いている。
生体分子ができるためには、陸地の岩石が反応触媒として働き、落雷や紫外線、火山噴火の熱などのエネルギー源が必要であるという理由から、"浅い海"が長らく生体分子生成の有力地とされてきた。それが1970年代に入ると、海底の熱水噴出孔が注目されるようになった(図1)。西オーストラリアのバクテリア化石の調査から、「初期の生命体は陸から遠く離れた遠洋域に生育していた」とされ、陸から離れた場所で生体分子ができる可能性がある場所として、熱水噴出孔が有力な候補の1つになったからだ。
「しかし、これらはいずれも状況証拠に基づく仮説です。現実に一歩近づくためには、実験で確かめる必要がありますが、これまでには十分な実験が行われていません」とチャンドゥルーは自らがこれから行おうとしている実験の意味について話す。
図1:チャンドゥルーは、海底の熱水噴出孔やマグマが流れ込む海岸付近、落雷地点など温度変化(エネルギー供給)の見られる場所で、生体分子は自然に合成されたと考えている。
アイディアと最先端技術で解き明かす
そこでまずチャンドゥルーは、生体分子ができたであろう"原始の地球の環境"を実験室内に再現しようというのだ。生体分子は高温では不安定であることから、生体分子ができた原始の地球は低温であったされている。ただ、局地的にさまざまな環境が存在しており、その中に生体分子ができやすい環境があったと考えられる。
1つは、ユーリー・ミラーの実験のように、落雷によって一瞬だけ高温になり、その後急激に冷えるという条件をフラスコ内につくる。これは浅い海の環境を再現するもので、「低温地球シミュレータ」と呼んでいる。設計図は完成し、現在、製作作業が進んでいる。実験では、一酸化炭素や二酸化炭素、アンモニア、メタン、水素など、フラスコ内のガスの組成によって、生体分子であるアミノ酸や脂質のでき方がどう変わるかを検討する予定だ。
一方、生体分子ができたとされるもう1つの候補地、海底の熱水噴出孔周辺で何が起こったのかは、「フロー式急冷リアクタ」で検討する(図2)。この装置の特徴は、熱水孔内部は高温でありながら、その周辺は海水の影響で一気に冷えるという環境を再現できることだ。しかも、そこには流れがあり、一瞬として環境が安定することがない。こうした環境下において、一酸化炭素や二酸化炭素といった単純な分子から、生体分子の元ともいえる炭化水素類の合成を試みる。
「2つの装置内の温度、pH、気体や溶液の組成などを変えることで、考えられる限りの原始の地球の環境を再現し、そこでどんな生体分子ができるか検討します」とチャンドゥルー。「この実験では、最終的な生体分子が何であるかだけでなく、それができる過程でどのような物質ができたり無くなったりしているのか、途中の段階も1つ1つ突き止めたいのです」。質量分析装置など、少量の物質の同定を可能にしてくれる最新分析機器もそろった。間もなく装置も完成の予定(2015年7月時点)で、ひたすら実験を繰り返す日々が始まる。
図2:海底の熱水噴出孔の環境を再現する「フロー式急冷リアクタ」。流れ(フロー)の中で、生体分子の合成反応が進む点が、これまでの多くの学者たちが行ってきた実験と異なる。
期待の大きさ
「生体分子が生成すれば、生命が成り立つわけではありません。生体分子の1つである脂質は、細胞膜など構造にならなくてはなりませんし、その中で代謝といったエネルギー変換が行われ、自己複製ができるようになって初めて生命だからです。細胞膜や代謝にももちろん興味はあります。しかし、生体分子ができなければ生命は誕生しない。私がやろうとしているのは、生命誕生のごく最初に起こった出来事の解明なのです」。チャンドゥルーの実験計画は、生命誕生の謎に迫るものだとして、平成27年度の笹川科学研究助成を受けることになった。
ELSIの外国人研究者では、初めて日本の助成金を獲得した。
生命誕生から38億年。その最初に起こった生体分子生成の現場を目の当たりにする日は、すぐそこまできているのかもしれない。
人物紹介
マレーシア出身のチャンドゥルー。趣味はサッカー。ポジションはミッドフィールダー。2010年に来日以来、東京や横浜を中心に仲間を募り、サッカーチームを結成し活動している。今回、計画中の実験については、「装置をつくったり、実験を進めたりする優秀なメンバーは揃いました。あとは、化学に精通したアドバイザーがいてくれるといいのですが」。ELSIのバックアップを受け、チャンドゥルーの結成した研究チームのチャレンジが始まる。